国際脳:英語に脳をハイジャックされるブログ

英語力向上の最大の障害は日本語だ!そう豪語する僕は日本語で英語のブログを書く。自分の体験に基づいているのでその学習促進効果は相当自信あり。英語初心者の頃、これを知っていれば!

吾は幸福のチャンピオンである

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自分は世界で一番幸せだという自覚はある。

いや、厳密には、世界で一番幸せな人たちの1人だと言った方がいい。

本人が幸せだと思っているのだから、理由も根拠もいらないのである。

よく幸せはお金じゃないと言われる。幸せはじゃない人には、お金を持っている人がこれを言うと綺麗事に聞こえるし、お金を持っていない人が言うと負け惜しみに聞こえる。僕にもそう聞こえた。

そして、幸せはお金で買えるとお金持ちが言い切れば、嫌味に聞こえ、お金のない人がそれを言うと悲しくて聞いていられない。

ただ僕は思う。ベトナムホーチミン空港を降り立ったとき、いつも思うのだが、希望に満ちたあのベトナム人たちの満面の笑顔を見ると、彼らの底知れぬパワーを感じる。インドの貧しい貧困街で遊ぶ子供たちの笑顔は、日本を含む先進国の都市で見てきた子供達のそれと何ら変わらなかった。

そう思うと、人間は物資的に貧しい事に不幸を感じるのではなく、他人と比較して劣っている気がした時、そう感じるのではないかと思う。

他者との比較で、あいつに勝っている俺は、あいつより幸せだ、マウントを取られた、だから俺は負けた、などという感覚が、人間の心を狭める。

幸せはいつでもなる事が出来る。そして自分を説得するその理由は、探せばいくらでもある。

5体満足である。まだ若い。素晴らしい家族や友達がいる。最高ではないか。それこそが一番素晴らしい。そう思えたら、最高なのに。

でも人間は鈍感だ。だから、既に持っているものの幸せの実感は逓減するらしい。ものは新しく手に入れた時、失った時にのみ、その尊さが感じやすくできている。

だから頭良く生きなきゃならない。自発的に、今与えられているもの、以前苦労して手に入れたものを有難く感じる事。そして決して他者との比較で卑屈になったり、奢らぬ事。無限の承認欲から脱する事。自分は自分らしく誇り高く生きる事。この辺りが、簡単そうでなかなか出来ない課題である。

リスニングが苦手なのは発音が悪いから

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よく外国語はリスニングはできるが、話すのが苦手という人がいる。

 

アメリカなどでも、親や祖父母が外国からの移民で、家で祖国の言葉(heritage language)を話している2世や3世の人は、彼らの話している言葉はわかるが、自分ではその言葉を話せないし、書けないという事がある。

 

この能力をpassive abilityというらしい。身に付けたスキルというよりは、自然に身についた能力というわけだ。

 

僕が英語のリスニング能力習得で苦労していた時、リスニングから入っていく人が羨ましく、その構造が理解できなかった。

 

そもそも人間は、自分の話は聞いてもらいたいが、人の話などは、有益な情報以外、基本的にまったく興味がないと思っていたからだ。

 

昔から先生に人の話を聞けと怒られ続けていた僕には当然だった。

 

このタイプの僕にとって、リスニングは最後まで課題だった。

 

語彙を学んでも、ネイティブの言っていることが全くわからない。

 

留学を実現するために、TOEICTOEFLのリスニング問題はパターンを暗記することで、高得点を出すことができたが、根本は全く解決していなかった。

 

現実世界では、アメリカ人やイギリス人はあんなにゆっくりはっきり喋ってくれないし、使うボキャブラリーも遥かに豊富だ。

 

それでもアメリカで3年も暮らしてどうにかコツを掴んだが、イギリス映画なんかを観に行くと、ブリティッシュアクセントが飛びだし、積み上げた自信が崩壊する。

 

そして自分に対する無力感と怒りに居た堪れなくなり、自信喪失して落ち込む。これの繰り返しだった。

 

でも、同じ留学生でアメリカ生活は短くても、彼らは僕のような苦労をしていない。

 

自信喪失はますます深まり、俺はバカなんじゃないかと思ってしまう。

 

所詮遺伝子の壁は越えられない、バカに生まれた俺は、永久にモノリンガルの域を脱するのことはないのではないかと。

 

しかし、ある日本屋で買ったCD付きの本を読んでいてピンと来た。

 

リスニングは出来ない人は発音が悪い。

 

そういえば渡米前に、アメリカ留学を体験していた友達からこう言われた。

 

「あなたがリスニングが下手なのは発音が悪いからだよ」

 

英語の音を理解していない人は、脳が日本語の音を識別する準備しか出来てないからダメなのだ、というのである。

 

挫折を知る前の傲慢な僕は、俺は発音もリスニングも完璧だ、お前は何言ってるんだと鼻で笑っていた。

 

よく駐在10年とかのおっさんが、英語がペラペラでも、発音がカタカナ鈍りの人がいる。

 

僕が会った事がある人では、ショー・コスギ(ケイン・コスギの父)がその典型例だった。

 

彼の英語は全部カタカナに聞こえた。「イエス・ザッツ・ライト!」と言った感じに。

 

こういうスキルは恐らく、並外れたアメリカで成功する執念と努力が習得させか、あるいは語学の才能があるかのどちらかだろう。

 

当時の僕には、アメリカ人と友達になってやるという執念はあったが、そういう才能や脳の柔軟性がなかった。

 

今思えば、アメリカ人や文化にさほど興味もなかった。ただ興味があったのは自分だけだった。

 

だから心を改め、それから発音を学びはじめた。

 

それから、アメリカ人の僕に対する評価が大きく変わっていった。

 

まず、僕が言った事が正しく伝わる。わかり易いと褒められる。

 

そして、リスニング力も、発音力のアップに比例して伸びていった。

 

よく、一定の年齢(いわゆる臨界期 threshold)を過ぎた人が英語の発音を直そうとしても、アクセントは一生消えないと言われる。

 

果たしてそうなのだろうか?

 

僕の出した結論は、年齢に関係なく、限りなくネイティブに近い発音をする事は理論上可能である。

 

カニズムを理解して実践すればいいのだ。

 

ただし、発音は癖なので、油断をすれば衰える。ゴルフのスウィングや楽器の演奏と同じだと思う。思うというのは、僕自信その二つともマスターした事がないからだ。

 

とにかく、発音をどうやって習得したか、それをお金を出して時間を掛け、アメリカ留学して、大学で言語学(linguistics)や音声学(phonetics)の勉強をして得た知識を、ここで分かりやすく簡単に書いていこうと思う。

イングリッシュハイを体験した事があるか!?

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語学に関するブログを書くにあたり、まず理由を書いておかねばなるまい。

 

”イングリッシュハイ”とは、僕が勝手に作った造語であり、和製英語である。

 

外国人に"English high"と言っても、日本語と日本文化に精通した人でない限り、通じるわけがない。いわゆるランナーズハイ、"runner's high"と同列にはならない。

 

僕はドラッグをやった事はないが、話を聞く限り、βエンドルフィンとか、ドーパミンという特殊なタンパク質が脳内で分泌され、気分が効用するらしい。

 

英語をやっているとこれが人工的に作れる、というものである。

 

しかも、麻薬のような依存性や危険性もない。

 

英語が話せるようになりたいと想い願う事は、英語学習者ならば必ず通る道である。

 

当然、日本人は英語を話せるようになりたいのだ。

 

ではなぜ、日本人は他の外国人と比べて英語が下手だと言われるのか。

 

英語と日本語の差異が大きいというのもある。中国語や韓国語には、まだ日本語と比べると英語との共通点が多い(発音も文法も)。

 

でもそれ以上に大きいのが、日本人のシャイさ。裏を返せば、変なプライドの高さ。

「話せるようになりたい」という願望に、「そのためにはどんな代償も厭わない」という条件がついてこない事で、「かっこ悪いのがいやだ」という恥の文化が幅を利かせている事だ。

 

最初は誰でも発音がおかしい。文法もめちゃくちゃなブロークンイングリッシュしか話せない。端から見たらバカに聞こえると思うかもしれない。

 

でもその恥ずかしさと恐怖と緊張の正体は、自分自身が作り上げている幻影だという事を見破るのは簡単だ。そこから動き出し、まがいなりにも意思疎通ができた時、最初の「脳内麻薬」が訪れる。

 

次に訪れるのは、僕がアメリカに来て1年ほど経った頃に来た。

 

「神の声」が聞こえたのである。

 

頭の中で思った事をアメリカ人の相手に伝えたいとき、頭の中に「こう言いなさい」という英語のセンテンスが降って来たのである。

 

英語で夢を見たり、独り言を言ったりするようになったのはその頃である。

 

夢も独り言も、意図的に仕掛けて言った布石である。

 

それらが自然に出るようになるには、そんなに時間は掛からなかった。

 

意図的に意識した事が"無意識"のメモリーに刷り込まれ、それがいつしか癖(habit)になっただけのこと。

 

不思議なのは、デジャヴのように、"神の声"が聞こえたことだ。

 

そんなフレーズは習った覚えがない。自分は英語を話している意識がない。でも自分の脳は確かに英語の情報のまま英語で処理し、自分がどんなアウトプットをするかを決定し、そのアイディアを端的に英語を媒体としてフレーズが出てくる。

 

それは、まるで母国語(first languageを話しているように自然だった。

 

その瞬間から、英語を自分のものにした喜びが自信のなさは吹き飛んだ。

 

それまでの日本人と忖度まみれの会話とは比べ物にならないほど、日本人としての自分のアイデンティティを異文化を持つ人と自己主張し合い、理解し合う事ができた。

 

ついでに言うと、日本人コミュニティーの中で抱いていた自分へのコンプレックスまでもがとても小さいものに思えた。

 

多少背が低いだの、ハゲだの、少々太っているだの、顔が悪いだの、そんなのは人種の違いに比べたら、どんぐりの背比べ。それより自分の個性である事に気づかせてくれた。

 

最高の経験だったし、それが自分を全く別の人間にトランスフォームさせてくれた。

 

僕が実体験から学んだ、そうなるための最短道しるべをここに書いて行こうと思う。